福山城博物館

 

 福山城 水野勝成によって建てられ、近世築城最後の城として、築地術の粋を集めた名城として知られている。
天守閣を始め多くの建物が戦災で焼失したが、昭和41年頃から再建され今日のようになった。
中でも戦災を逃れた伏見櫓、筋鉄御門は桃山時代の建物で美しい三層の櫓やどっしりとした構築美を見せている。
天守閣の内部は博物館として一般に公開されている。

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城と城下町

  江戸時代前期の福山

 戦国時代には、勢力をたくわえた戦国大名たちの戦乱が続きましたが、中国地方を統一したのは毛利元就で、輝元は広島城をつくりました。
その毛利氏は関が原の戦いにやぶれて防長二国へ移され、そのあと福島正則が芸備両国49万8000石の大大名となります。
福島氏も信濃国川中島へ移され、そのあとに安芸国と備後国の一部は浅野氏、備後国の東南部は水野氏が入ります。
備後七郡と備中小田郡の一部10万石の譜代大名としての水野勝成は、西国をみはる役割をもって元和5年(1619)備後福山に入り、福山城を築城、城下町を建設します。
福山城は元和8年(1622)8月に完成、城号は敵追山(鉄履山)朱雀院久松城、別名葦陽城といい、城下を福山とよびました。
城下町は、西と南を侍屋敷、東の一部を町人町とし、その外側に下級家臣の屋敷、さらに寺を町のまわりに置き、町全体は芦田川とその分流によって包みこむ形としました。
芦田川の水を使って上水道をつくり、南へ南へと開拓を進め、わたしたちの町福山の基礎がこの時に成立しました。

安部氏の治世

  江戸時代後期の福山

 水野氏5代のあと、わずかの期間幕府代官の支配する幕領時代と松平氏の約10年があり、宝永7年(1710)から明治維新に至るまで阿部氏10代の治世となります。
阿部氏は水野・松平氏が築いた支配体制の上にたち新領主としての治世を円滑に運ぼうとします。
しかし同じ10万石でも水野時代と異って元禄検地により減地されての10万石で、しかも藩主は幕府の重職として江戸詰めのため、特別の支出が必要となり、農民への租税はかさむ一方となりました。
さらに貨幣経済の発達やたびたび重なる天変地異により藩経済は慢性的な財政窮乏状態にあり、百姓一揆も発生しました。
社会のしくみの矛盾が認識されてくる中で、藩政改革や文教政策の取組みなどがなされました。
安政元年(1854)に日米和親条約が結ばれた時の老中首座は福山藩阿部氏第7代藩主の阿部正弘で、日本は開国へとあゆみはじめます。

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